


2011年3月11日午後2時46分に起きた�東北東日本大震災。
あの日私は東村山市役所のいきいきぷらざ2階にいて、とてつもない揺れに慄き、なにが起きたのかわかりませんでした。
市役所庁舎内のすべての市民、職員、議員が市役所外に避難し、指揮を渡部市長がとっておられました。
当時6才、4才、2才の子どもたちの保育園、幼稚園や、自宅にいる存命時の71才の母や、日本橋で勤務する夫に電話をしても、全く繋がらず、あちこち掛けても繋がらない。
不安は増し、せめて市役所外で垣間見える知り合いの職員さん、議員さんがいたことが、少しだけ心強かったです。
揺れが少し収まりいきいきプラザで、テレビ中継をみんなで見た。
とてつもない地震の被害、津波…
どうなるのか、全く想像もできなかったです。
夕方過ぎにやっと幼稚園、保育園に電話がつながり、慌てないでお母さん、来てくださいね。
わたしたちが大事なお子さんを守ってますから。
その言葉に、どうしようもない不安な気持ちがほっとし、涙がこぼれました。
自宅や夫には繋がらないけれど、とにかく子どもたちを迎えに行き、先生たちといた子どもの姿に、安堵して、号泣しました。
なんとか自宅に帰ると、今は亡き陸前高田市生まれ育ちの母が怖かったね〜と。
テレビで映る故郷があまりに変わっていくのが、、言葉もなかったです。
陸前高田、大船渡、八戸の親戚との連絡もなかなか取れず、、、
やっと無事を確認し。
夫は日本橋から15時間かけて歩いて帰宅できました。
震災後すぐには駆けつけることができなかったものの、行けるようになって陸前高田、大船渡に行きました。
本当に、津波で、何もかも流されてしまったことに…深い驚きと悲しみと喪失で…どう思えばいいのかわからなかったです。
赤ん坊の頃から毎年訪れる幼少時からの記憶にある陸前高田市も、カエルやスズムシ、セミが鳴き、昔は豚や牛を飼っている家も多く。
さらに奥地の小友町は、在来線で、一ノ関から2、3時間もかかる町でしたが、その在来線の線路は、津波でことごとくつぶれ、真っ二つに割れたり、丸く歪曲したり、跡形もなかったり、、、。
復旧の青写真を国や陸前高田市が描いてくれないと、市民たちは、動きようもなく、青写真がないことには、復旧がますます遅れる。
親戚や地元の方々は語り市が手立てを打てずにいて周りの家々の壊れた門扉や、墓石の立て直しを、ボランティアで率先して行っていました。
当時あったいまはなき駅の標識を見て、何も言えず、、、。
復旧がまず、先。復興は、その後。
そう語る地元の人の声を、私は色んな所で伝えていこうと思いました。
2011年3月11に起きた東日本大震災 と原子力発電所事故から14年。
お亡くなりになった方々に深い哀悼の誠をささげ�被害に遭われたすべての方に改めてお見舞いを申し上げます。
震災で犠牲になられた方々への哀悼を午後2時46分に黙祷します
